大学受験の話 後編

 

9月の末、同じクラスの岡崎(ROUND1を断った友達、女子から1番嫌われていたがいい奴)と佛大のオープンキャンパスにいった。オープンキャンパスといっても相談スペースのようなものが設けられて、学生がこちらの質問に答えてくれるような小規模なものだった(もっと力を入れたものも開催されていたみたいだがもう終わっていた)。岡崎は大学に全く興味はなかったが、1人で京都に行くのが怖かった僕に着いてきてくれていた(いい奴)。一緒に学食を食べて、キャンパス内をうろちょろして、せっかくなので近くにあった金閣寺にいった。外国人がいっぱいいた。大阪や神戸にも外国人はたくさんいるだろうが、和歌山には外国人はほとんどいないので新鮮だった。京都に住むことになったら「外国人の友達を作って英語ペラペラになったろう」と思った(こんなことはできるわけがなかったが)。

鴨川沿いでダラダラして夕方くらいに帰った。

オープンキャンパスで学生たちと話した内容はほとんど覚えていないが、学食は大きくて、キャンパスは綺麗で、外国人も金閣寺も鴨川も、全てが新鮮で「ここに住みたい!」と思った。

当時の僕には、理由はそれだけで良かった。

 

佛大を目指すと決めて初めにしたことは学科選択だった。親や先生には「教師になりたい」という適当な理由を伝えていたので、教育学部がまず目についた。しかし、調べてみると佛大の教育学部はめっちゃ賢かった。到底当時の僕が目指せるレベルではなかったので、読書が好きという理由だけで文学部日本文学科を選んだ。受験のレベルも目指すにはちょうどよかった。

 

次に科目選択。佛大の一般入試A日程では英語と国語は必須で、後は決められた科目の中から選択できる。計3科目である。担任の吉澤先生に相談したところあまり期間もないので暗記科目が良いのではないかということで、地理、日本史、世界史、政治経済、物理、生物などが挙げられた。僕は根っからの暗記苦手野郎で、どれも選ぶのが嫌だった。なんとなく中学生の時は数学が得意だったし、吉澤先生は数学の担任だったので、数1数Aはどうかと尋ねた。吉澤先生は渋々ではあったが「1週間やってみていけそうやったらええんちゃう?」とのことだったのでとりあえず数1数Aの勉強をしてみることにした。1週間でかなりの手応えがあったので数1数Aを選ぶことにした。国語は現代文のみで古文はなかった。もともと文章読解は得意だったので、漢字や四字熟語、ことわざなどに力を入れて勉強した。英語は壊滅的でほとんど手をつけなかったが、単語帳だけは持ち歩いていた。

 

予備校には行かないことにした。中学、高校と塾に通っていた時期はあったが、結局はやる気次第でどうにでもなると感じていた。わからないことは学校の先生に聞けばいい。

授業はほとんど聞かず数学の勉強をした。6限が終われば、満陽、服部と図書室か自習室に篭り19〜20時まで勉強し帰宅した。初めは色々と新鮮でやってみれば新しく知るということ自体が楽しかった。疲れたら気心の知れた2人と駄弁って気分転換もできた。

しかし、ずっと順調なわけではなかった。

 

僕の高校の卒業生は6.7割ほどの生徒が就職する。残りは進学するわけだが大半が専門学校であり、四年制の大学に進学する者はほとんどいなかった。いたとしても指定校推薦組が多く、この時期に勉強している者などいなかった。11月に入れば学校に来ない者も多く、みんな学校が終われば遊びまくっていて楽しそうだった。そんな中ひたすら勉強をしていた3人の精神はおかしくなっていった。大多数が楽をしていて、自分達だけが苦労しているように思えた。次第に自分達がしていることは正しいのかわからなくなり、これが正しいのだと言い聞かせないと自分を保てなくなっていた。しまいには勉強しない者はバカだと決めつけ軽蔑した(受験競争をしていた者が学歴で人を判断してしまうこともこういう部分から来るのかもしれない)。

 

さらに僕を苦しめたのは母とのやりとりである。僕は家では一切勉強をしなかった。昔から勉強でも野球でも親に努力を見せるのが苦手だった。これは恥ずかしいからなのかどういう感情からなのかよくわかっていない。昔からずっとそうだった。この気持ちをわかってくれる人がいれば教えて欲しい。

母からすればいきなり大学にいくと言ったきり一切勉強しないものだから心配になるのは当たり前である。勉強はしているとは伝えていたが、どうせ遊び呆けているのだろうと思われていた。不安に駆られた母はヒスを起こして僕はどんどん疲弊していった(もっと伝え方があったなと今では反省している)。

 

年が明け1月から3年生は学校の授業がなくなり登校しなくなる。それからは家の近くの集会所を借りて3人で勉強した。最後の追い込みをかけてやり切った。今思い返すと一緒に頑張ってくれた2人のおかげで比較的に楽しく受験勉強に取り組むことができたと思う(全然野球の方がしんどかった)。自分の人生の選択肢の中でもかなりの比重がかかった選択を一本の電話で決めてしまったことになるが、全く後悔したことはない。

これがなければバンドを組むこともなかった。

 

最後に頭がおかしくなっていた僕たちの奇行、悪行の一部を紹介して終わりにしようと思う(笑って読んでくれると嬉しい)。

正月、僕は親戚の集まりには行かず満陽とマクドナルドで勉強していた。この頃になると数学の勉強の成果はかなり出ており、現代文の担任の先生からもらった漢字やことわざのドリルの内容もしっかり頭に入っていた。満陽は僕より難易度の高い受験に挑戦していたので、数2数Bや古文も勉強していて苦戦している様子だった。日も暮れてそろそろ切り上げようとなりマクドナルドを出た。自転車での帰り道、僕らは横断歩道で立ち止まり信号を見ていた。すると信号は点滅をはじめた。その時、青信号だったことに気づいた。僕らは急いで渡ろうとしたがすぐ赤に変わった。僕らは顔を見合わせて笑い合ったが、青信号なのになぜが立ち止まってしまうくらいに頭がおかしくなっているのだと思い怖くなった。

そのまま帰り道の途中消防署の前を通った。前にいた消防士に向かって「うんこ!!!」と叫び全力で自転車を漕いで逃げた。これも本当に意味がわからない行為だ。

 

ある日の学校の帰り道、どうしても乗りたい電車があったのだがキリのいいところまで勉強をしたせいで時間がギリギリになっていた。満陽と急いで坂を駆け降りると、学校の下にある売店(部活終わりの生徒がよく唐揚げやフライドポテトなどを買っていた)の前に自転車が数台止まっていた。冗談まじりに「あの自転車パクろうや」と僕が言うと、満陽は「ええで」と言い自転車に乗って走り出した。「えっ!?」っと僕は焦りながらも同じように自転車に乗り満陽を追いかけた。結果駅まで自転車を漕いで、電車には間に合ったが、僕らは自転車を盗んだ。本当に最低なことをしたと猛省したが、あのスリルの中自転車を漕いだ時間は夕焼けに照らされ、すごい爽快感で楽しかった。陰鬱な気分が晴れていくのを感じた。心の底から笑い合っていたのを覚えている。

 

僕はバンドを組んでからこの日のことを歌にして満陽に送った。現実逃避行という曲だったと思う。もちろんバンドで演奏するような曲ではなくボツになったが、去年nanoでやった bloom in livehouseという企画に来てくれた満陽がいまだにこの曲を保存していて聴かせてくれた。懐かしかった。

あの陰鬱とした日々も浮かばれたのではないかと思った。

 

 

p.s.

結果満陽は受験に失敗し、服部は合格したが学科の関係で滋賀県の瀬田キャンパスに通うことになり、僕は1人京都で生活することになった。