気づいたこと

 

 

最近はかなりほのぼのと暮らしている。

毎年春は苦手で色々と乱れ狂って1番嫌いな季節なのだが今の所大丈夫。しんどいバイトもしっかり出勤できていて「マジ余裕なんだが卍」という具合である。

僕は何かに苛立っていたり不満がないと歌詞が書けなかったり、ブログも書くことがなかったりするので、最近は更新できていなかった。

ブログを更新していないということは僕のメンタルが安定しているということだと思ってもらってもいい。

しかし、「そんな自分は空っぽなのでは?」というジレンマも抱えながら暮らしているのも事実である。

昨日僕のブログをやたら読んでくれている人とブログの話をしたので大阪に帰ってきて早々更新してみることにした。

 

 

 

僕は幼い頃からお箸の持ち方が汚かった。

母からは何度も注意され、時には説教されたのだが僕のお箸の持ち方が変わることはなかった。高校生にもなると母も呆れ、注意されることもなくなっていた。

時は流れ、大学生になり、好きな子とデートに行ったり、バイト先の飲み会でなんとも言えない微妙な距離感の人達と会食したりする度に、僕のお箸の持ち方が汚いことに対して「あれ?もしかしたらちょっと恥ずかしいかも、、」と思うようになった。

それから正しいお箸の持ち方に矯正するようになった。母から何度も教わっていたので体得するのにそう時間はかからなかった。久々に帰省した際、母からは「あれ?ちゃんとお箸持ててるやん」と言われ「せやねん〜ちょっと恥ずかしいかもって思ってん〜」

母「あんなに注意しても直らんかったのに」

僕「やっぱり自分で気づくってことが大事なんですなぁ〜」

というような会話をした。

なんてない会話だったが今でも強く印象に残っていて、「やっぱりどれだけ人に何か言われても自分でそれに気づかないと何も変わらんのやなぁ」と思うようになった。

 

こんな経験もあってか、僕は何かを人に伝えたい(と思うこと自体少なくなっていた)と思った時に「でも結局この人が気づくかどうかやもんなぁ」となってしまい、人に何かを伝えたり教えを説くことをしなくなっていた。

でも自分自身は色んなことに気づきたい、まだまだ気づけることがあるんだという思いが強くなっていた。

 

そして今僕はhananashiというバンドを通して、気づかせたい、わからせたいと思うのである。

伝えたいのではなく気づかせたいのである。

より良い自分に、またそれを考えるきっかけを、そして僕自身がより良い自分にまだまだ気づきたい。

 

何もなくて何かあった日

 

 

今日は何もない日。

ここ数日、ちょっと落ち込んでいて、いつものような笑顔で働ける自信がなかったので前々からバイトは休みにしておいた。全然真顔を決め込んで働くこともできるが、そうすると心配されるというより心配してくれる人がたくさんいる職場だから変に心配はかけたくなかった(こんなことは多々あり一過性のものなのですぐに元に戻るとは思う)。

 

昼に起きて先日結婚式でもらった万福のお茶漬けモナカという謎の箱を開け、お茶漬けを食べた(めっちゃ美味しかった)。お香を焚いてバレンタインでもらったチョコとブレンディのカフェオレ、何周もしている村上春樹、録り溜めたバライティ番組、等ダラダラ過ごして外はもう暗くなっていた。去年の8月に購入したアコギを取り出して最近のお気に入りのコードを弾いた。

 

僕は日常的に曲を作ったりする人間ではない。

そして、そんな僕が歌詞を考えたり、曲を作ってみたりするきっかけになるのはいつも負の感情だった。

 

「今ならできるかも」と思い立った。

 

ずっと使いたかったコードと今の心がリンクしていた。なんとかメロディと言葉にして、コードとぶつかってないか、心と言葉が限りなく近くにあるのか何度も確認する。執拗にトイレの場所を探り決死の思いで用を足す犬の様。

 

怒り、嫉妬、悲しみ等の負の感情も一つ曲というカタチになることで無駄なことではなかった。意味のあることだった。と少し気が楽になる。でも今日は作っている途中からすごく苦しくなって汗が止まらなくなった。一旦チョコを食べて落ち着いて、完成した今、ちょっと過呼吸になりつつあるけど、この文章を書けるくらいには大丈夫。

この曲は明後日の名古屋での弾き語りで披露できればと思う。披露というのはなんか違うか、ただ歌えればと思う。

バンドを始めた頃は自分の気持ちを歌うことが恥ずかしくて仕方がなかったけど、今は何とも思わない。これはおそらく昔の自分が正常で、今の僕や、自分の歌を性懲りも無く歌うバンドマンは皆異常だと思う。

異常で結構でしょう。皆さん。

 

 

 

『染める』

 

嫌いになることがない代わりに

僕は好きになることもないのか

いつかの舞台上の光は壁を睨んで

歌を歌うというより怒鳴ってた

最近ちょっと不安になる

僕はこの先も変わらずに歌えるかな

急に居なくなった

帰って行った彼等の様に

疲れて、草臥れてしまうかな

流行りも理不尽も受け入れていかなきゃな

そしたらほら

明日も明後日も歌っていけるもんな

嗚呼だから僕は気づいてないふりをして

そっと染まっていった 素っ空空だな

もう何も言えなくなって僕が見えなくなった

花にも遣れない水が目から溢れたんだ

もう歌も聴かなくなってきつい毒に頼った

じゃあもうどうでも良くなって

君に会いたかった

明日どれだけ辛くたって

生きていく為 部屋を出るよ

愛する君にただ捧げるための言葉を探して

歌いたいよ

 

 

 

『Ollie』

 

湧き上がった歓声

切れなかったゴールテープ

振り返った少年 俯く

「ダメか」引き返す

 

言えなかった本音

曇りゆく可能性

振り返った少年 俯く

冷めた君が居る

 

抗え睨め「運命」など

お利口な優等生

間違って悩んで笑って泣く

後悔と共に行け

翔け少年

 

母さんが怒鳴った声 黙る僕

頷いた分だけ大人になったかい?

腫らした目 それでも出ない声

僕は誰だ?

 

疑え怒れ「運命だ」と

押し殺した優等生

失って悔やんで笑って泣く

諦めと共に行け

闘え少年        

 

どこかでまだ息を潜めた

僕に手を振るまで

 

 

 

最近できた2曲。当分ライブで外すことはないと思うから心の中でなぞってみてほしい。

 

スタジオへ

 

明日のリハのために機材を持ってスタジオに向かう。最寄りの駅に着いたところで財布がないことに気づいた。いつものポーチごと家に置いてきたらしい。すぐ取りに帰ったが、電車は一本逃しスタジオには遅刻しそうである。今は次にきた電車の中でこの文章を書いているのだが、明日はこんなふうに空回らないで欲しいと願うばかりである。

 

12日から怒涛のライブで体力的にも精神的にも、そして肝臓的にもだいぶ負荷をかけている。あまりにも刺激的でただ楽しいだけでは片付かない日々だが明日で一旦一区切りつく。

今僕にとって全てに於いて一番のバンド。との対バン。正直楽しみではない、多分すごく苦しくなるんじゃないかと思う。でも今自分にとって1番必要なことだと思う。

僕のままでちゃんと勝負したい。

 

そしてこんな機会を与えてもらえたこと本当に感謝しているし、この日を楽しみにしてくれている人たちに最高な気持ちで帰路についてもらいたい。

 

そろそろ到着するので終わりにする。

大学受験の話 後編

 

9月の末、同じクラスの岡崎(ROUND1を断った友達、女子から1番嫌われていたがいい奴)と佛大のオープンキャンパスにいった。オープンキャンパスといっても相談スペースのようなものが設けられて、学生がこちらの質問に答えてくれるような小規模なものだった(もっと力を入れたものも開催されていたみたいだがもう終わっていた)。岡崎は大学に全く興味はなかったが、1人で京都に行くのが怖かった僕に着いてきてくれていた(いい奴)。一緒に学食を食べて、キャンパス内をうろちょろして、せっかくなので近くにあった金閣寺にいった。外国人がいっぱいいた。大阪や神戸にも外国人はたくさんいるだろうが、和歌山には外国人はほとんどいないので新鮮だった。京都に住むことになったら「外国人の友達を作って英語ペラペラになったろう」と思った(こんなことはできるわけがなかったが)。

鴨川沿いでダラダラして夕方くらいに帰った。

オープンキャンパスで学生たちと話した内容はほとんど覚えていないが、学食は大きくて、キャンパスは綺麗で、外国人も金閣寺も鴨川も、全てが新鮮で「ここに住みたい!」と思った。

当時の僕には、理由はそれだけで良かった。

 

佛大を目指すと決めて初めにしたことは学科選択だった。親や先生には「教師になりたい」という適当な理由を伝えていたので、教育学部がまず目についた。しかし、調べてみると佛大の教育学部はめっちゃ賢かった。到底当時の僕が目指せるレベルではなかったので、読書が好きという理由だけで文学部日本文学科を選んだ。受験のレベルも目指すにはちょうどよかった。

 

次に科目選択。佛大の一般入試A日程では英語と国語は必須で、後は決められた科目の中から選択できる。計3科目である。担任の吉澤先生に相談したところあまり期間もないので暗記科目が良いのではないかということで、地理、日本史、世界史、政治経済、物理、生物などが挙げられた。僕は根っからの暗記苦手野郎で、どれも選ぶのが嫌だった。なんとなく中学生の時は数学が得意だったし、吉澤先生は数学の担任だったので、数1数Aはどうかと尋ねた。吉澤先生は渋々ではあったが「1週間やってみていけそうやったらええんちゃう?」とのことだったのでとりあえず数1数Aの勉強をしてみることにした。1週間でかなりの手応えがあったので数1数Aを選ぶことにした。国語は現代文のみで古文はなかった。もともと文章読解は得意だったので、漢字や四字熟語、ことわざなどに力を入れて勉強した。英語は壊滅的でほとんど手をつけなかったが、単語帳だけは持ち歩いていた。

 

予備校には行かないことにした。中学、高校と塾に通っていた時期はあったが、結局はやる気次第でどうにでもなると感じていた。わからないことは学校の先生に聞けばいい。

授業はほとんど聞かず数学の勉強をした。6限が終われば、満陽、服部と図書室か自習室に篭り19〜20時まで勉強し帰宅した。初めは色々と新鮮でやってみれば新しく知るということ自体が楽しかった。疲れたら気心の知れた2人と駄弁って気分転換もできた。

しかし、ずっと順調なわけではなかった。

 

僕の高校の卒業生は6.7割ほどの生徒が就職する。残りは進学するわけだが大半が専門学校であり、四年制の大学に進学する者はほとんどいなかった。いたとしても指定校推薦組が多く、この時期に勉強している者などいなかった。11月に入れば学校に来ない者も多く、みんな学校が終われば遊びまくっていて楽しそうだった。そんな中ひたすら勉強をしていた3人の精神はおかしくなっていった。大多数が楽をしていて、自分達だけが苦労しているように思えた。次第に自分達がしていることは正しいのかわからなくなり、これが正しいのだと言い聞かせないと自分を保てなくなっていた。しまいには勉強しない者はバカだと決めつけ軽蔑した(受験競争をしていた者が学歴で人を判断してしまうこともこういう部分から来るのかもしれない)。

 

さらに僕を苦しめたのは母とのやりとりである。僕は家では一切勉強をしなかった。昔から勉強でも野球でも親に努力を見せるのが苦手だった。これは恥ずかしいからなのかどういう感情からなのかよくわかっていない。昔からずっとそうだった。この気持ちをわかってくれる人がいれば教えて欲しい。

母からすればいきなり大学にいくと言ったきり一切勉強しないものだから心配になるのは当たり前である。勉強はしているとは伝えていたが、どうせ遊び呆けているのだろうと思われていた。不安に駆られた母はヒスを起こして僕はどんどん疲弊していった(もっと伝え方があったなと今では反省している)。

 

年が明け1月から3年生は学校の授業がなくなり登校しなくなる。それからは家の近くの集会所を借りて3人で勉強した。最後の追い込みをかけてやり切った。今思い返すと一緒に頑張ってくれた2人のおかげで比較的に楽しく受験勉強に取り組むことができたと思う(全然野球の方がしんどかった)。自分の人生の選択肢の中でもかなりの比重がかかった選択を一本の電話で決めてしまったことになるが、全く後悔したことはない。

これがなければバンドを組むこともなかった。

 

最後に頭がおかしくなっていた僕たちの奇行、悪行の一部を紹介して終わりにしようと思う(笑って読んでくれると嬉しい)。

正月、僕は親戚の集まりには行かず満陽とマクドナルドで勉強していた。この頃になると数学の勉強の成果はかなり出ており、現代文の担任の先生からもらった漢字やことわざのドリルの内容もしっかり頭に入っていた。満陽は僕より難易度の高い受験に挑戦していたので、数2数Bや古文も勉強していて苦戦している様子だった。日も暮れてそろそろ切り上げようとなりマクドナルドを出た。自転車での帰り道、僕らは横断歩道で立ち止まり信号を見ていた。すると信号は点滅をはじめた。その時、青信号だったことに気づいた。僕らは急いで渡ろうとしたがすぐ赤に変わった。僕らは顔を見合わせて笑い合ったが、青信号なのになぜが立ち止まってしまうくらいに頭がおかしくなっているのだと思い怖くなった。

そのまま帰り道の途中消防署の前を通った。前にいた消防士に向かって「うんこ!!!」と叫び全力で自転車を漕いで逃げた。これも本当に意味がわからない行為だ。

 

ある日の学校の帰り道、どうしても乗りたい電車があったのだがキリのいいところまで勉強をしたせいで時間がギリギリになっていた。満陽と急いで坂を駆け降りると、学校の下にある売店(部活終わりの生徒がよく唐揚げやフライドポテトなどを買っていた)の前に自転車が数台止まっていた。冗談まじりに「あの自転車パクろうや」と僕が言うと、満陽は「ええで」と言い自転車に乗って走り出した。「えっ!?」っと僕は焦りながらも同じように自転車に乗り満陽を追いかけた。結果駅まで自転車を漕いで、電車には間に合ったが、僕らは自転車を盗んだ。本当に最低なことをしたと猛省したが、あのスリルの中自転車を漕いだ時間は夕焼けに照らされ、すごい爽快感で楽しかった。陰鬱な気分が晴れていくのを感じた。心の底から笑い合っていたのを覚えている。

 

僕はバンドを組んでからこの日のことを歌にして満陽に送った。現実逃避行という曲だったと思う。もちろんバンドで演奏するような曲ではなくボツになったが、去年nanoでやった bloom in livehouseという企画に来てくれた満陽がいまだにこの曲を保存していて聴かせてくれた。懐かしかった。

あの陰鬱とした日々も浮かばれたのではないかと思った。

 

 

p.s.

結果満陽は受験に失敗し、服部は合格したが学科の関係で滋賀県の瀬田キャンパスに通うことになり、僕は1人京都で生活することになった。

2024

 

2024年が始まった。

今年は何年かぶりに実家で正月を過ごした。久々に会った祖父母はとても小さかった。母はなぜかオシャレになっていた。昔から親戚で集まってする食事が嫌いだった。なのに今年は久々に会った親戚と楽しく会食した。あの頃はなんでも敵に見えていたけど、みんな僕の味方だった。これも大人になるということか。スイカゲームに熱中しているとあっという間に3日が過ぎ、大阪に戻ってきた。まだ何か足りない気がしていた。まだ2024年は始まってない気がした。

 

昨日は松本ALECXでライブ初めだった。店長の田中さんやスタッフの方々に挨拶して、久々の仲間にも再会した。近くの若大将という山賊焼が売りの店で食事を取り、手際よくリハを終え、スイカゲーム。まだ足りていない。イベントが始まりぼうっとライブを観ていた。自分の出番の準備をしてフロアに向かうとミニマムジークがライブをしている。胸の奥の方で何かが刺激されているのに気がついた。この闘争心、怒りや劣等感、期待や不安。ここ数日胸の奥にしまわれていた感情が騒ぎ出していた。気づけばフロアの最前の方でミニマムジークを観ていた。この時2024年が始まっていた。やはりライブを観ないと動かない感情がある。みんなこれを求めてライブハウスに来るんだなと再確認。

 

毎年言っているが今年は大事な年になると確信している。有難いことにたくさんの魅力的なイベントにお誘いを頂けている。もちろん全てのイベントに出演することはできないが、出演すると決めたライブには全身全霊で挑ませてもらう。ライブでは音源化されていない曲を演奏することも多々ある。やはり新しくできた子が可愛いものである。この曲たちをイヤホンから聴ける日を心待ちにしてくれている人達もたくさんいると思う。hananashiのリリース頻度は遅い方だが新しい曲は出来てきている。周りにはすごいスピードでぽんぽんリリースするバンドもいる。でも僕達は「これが本当に確かか」をしっかり考えてから一歩を踏み出すタイプのバンドである。右を見て左を見て、また右を見て横断歩道を渡る。満を持していい報告を2024年はできればと思っている。

 

チバユウスケ

 

2023.12.5

チバユウスケの訃報がThe Birthdayの各公式SNSより報告された。

 

僕がこのロックシンガーを初めて認識したのは、大学1回生の時だった。

軽音学部の活動で夏休み中に1週間長野県の山奥で合宿を行う。3日間みっちり練習して最後の2日でライブをする。

そこでTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)のコピバンをすることになった。そのバンドのボーカルこそがチバユウスケだった。僕はそれまでTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTというバンドは全く知らなかったし、興味もなかったが、同回生で仲が良かったベースのガシ(後に部長になる男)に誘われるがままに組んだ。

 

僕が所属する軽音楽部では、入部と同時に、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードの中からパートを選び、そのグループに所属する形となる。各グループに枠が与えられ、大体月に1回ある定期ライブで与えられた枠の数だけバンドが組めるというシステム。ライブが終わればその都度バンドは解散し、また別の部員とバンドを組む。バンドの組み方は人それぞれで、基本的には仲の良い者同士でバンドを組むことが多いが、腕のある者は上回生からお誘いをもらうこともある。そうなるとよりクオリティの高い演奏ができたり、難易度が高いバンドが組めたりする。なかなかバンドが組めない部員がいたり、人気な者は何バンドも掛け持ちしていたりと完全な実力社会だった。未経験者が多い部活だったこともあり、みんなしのぎを削って練習していた。

 

僕は入学当時、どの部活に入るか全く決めていなかった。入学式が終わって体育館を出るとたくさんの上回生が新入生を待ち構えていた。部活動やサークルの団体で集まって新入生の勧誘合戦がはじまる。僕も勧誘の猛攻を浴び、大量のビラを家に持って帰る事になった。その中に軽音楽部のビラも混ざっていた。高校生の時にRADWIMPSONE OK ROCKなどみんなが聴いていたロックバンドに僕もハマっていたので、軽音楽部はなんとなく気になってはいたが、高校まで野球一筋だった僕は文化部の雰囲気になんだか気が引けてしまって近寄ることができなかった。

 

和歌山から1人京都に出てきていたので友達など1人もおらず、唯一同じ高校から進学していた人に話しかけて、学年レクレーションや健康診断など一緒に回ったり、アメフト部や軟式野球部の体験などには参加した(この人とは結局あまり仲良くなれずに終わった)。

なんとなく日々は過ぎていき、ゴールデンウィークに帰省して旧友や当時の彼女と遊んで、また京都に戻った。

「そろそろ部活決めなやばいな〜」と思いながら1人端っこで受けていた講義中に話しかけてきた者がいた。同じ学科の慧周(えしゅう)だった。学科別のレクレーションで話しかけられて以来、少しだけ仲良くなり、たまに一緒に講義を受けたり食堂にいったりしていた。その日も講義が終わってから一緒に食堂で昼食を食べながらたわいもない話をしていた。その時「きむ部活どうするん?」と聞かれ「どうしよかなぁ、、慧周は?」と聞き返すと「俺は軽音部入るで、きむも入ったら?今日はちょうど部会があるから来いや」と言われ元々気にはなっていたので部会に行ってみることにした。

 

部会は毎週火曜日に行われており、部員は必ず出席しなければいけないらしかった。大教室で回生ごとに分かれて座っており、部員全体で100人近くはいた。その中でも僕と同じ一回生は特に多く30人以上はいた(ほとんどが辞めていき、最後は15人ほどだった)。

その日までに楽器体験や新入生歓迎会などで親睦を深めていた同回生はすでに各々のコミュニティができており僕が入れる余地はなかった。

その日は入部届の提出期限だったらしく軽い気持ちで来ていた僕は入部するか否かその場で迫られることになった。さらに、腕見せライブという新入生がメインのライブがあり、入部者は全員このライブに出演しなければいけなかった。そのライブのバンド締切もこの日だった。

僕はその場の流れで断ることもできず入部することとなり、ボーカルグループに所属することになった。初めて部会に来た僕に腕見せライブで組んでくれる部員などいるはずもなく上回生が仕方なく組んでくれた(その中にはみねさんがいた)。楽器も持っていないのでピンボーカルで好きなバンドを聞かれONE OK ROCKのコピバンをやることになった。

とんとん拍子で色々と決まっていったが、部員からは完全に変人だと思われていたと思う。

 

軽音楽部の部室は地下2階にあり、その横にはスタジオがあった。

初めてスタジオに入って曲を合わせた時に思ったことは「楽器の音でか!」だった。カラオケ感覚だった僕の声量ではほとんど楽器にかき消されていた。それでも何度かスタジオに入っているうちに少しずつ形になってきた、合わせるのも楽しかったし、何よりもずっと憧れていたバンドをやれているという嬉しさがあった。

 

迎えた腕見せライブ

部会で変人扱いされてから、ほとんど友達は出来ていなかったし、上回生にも良いところを見せたかった。ついに見せ場がきた僕は緊張のあまり完全に"かかっていた"。本番の記憶は一切なく、一曲しか歌っていない(Deeper Deeper)のに気づいたら汗だくでステージを降りていた。本当に最悪な歌を歌っていたことだけはわかった。みんなから笑われている気がした。恥ずかしさのあまり消えてなくなりたかった。もう辞めよう。と思った。周りのボーカルはみんな上手で既にギターを弾きながら歌っている者もいた。周りとの差を見せつけられ落胆して、同回生のみんなは打ち上げでサイゼリアに向かったが僕はいかなかった。

高校までカラオケでチヤホヤされていた程度の僕の自信は完全に喪失してしまった。

 

こんな僕が評価されるはずもなく、次の7月の定期ライブは誰にも誘われなかった。腕見せライブを組んでくれた先輩は僕を見兼ねてもう一度ONE OK ROCKを組もうと言ってくれた。ベースのみねさんだけ枠が空いてなかったので、代わりに枠が空いていた同回生のガシが入ってくれた。必死に練習して、前回よりは上手く歌えた気はしたが、僕の自信が戻ってくることはなかった。

 

そうして「俺は歌の才能ないし、ギターがんばってみよ」となり、7月の定期試験を終え夏休みに入った僕はすぐに帰省して母に頼み込んでギターを買えるだけのお金を貰った。京都に戻ってきて、5万円を握り締め楽器屋に入った。ど素人の僕は楽器のことは何もわからないし、全く弾けないので試奏させてもらうのも嫌だった。5万円きっかりで1番見た目がイカしてるものを選んで購入し、そそくさと帰った(Epiphoneのレスポールだった)。

それからは家にいる時間はずっとギターの練習をした。さらに当時の僕は京都に友達がいなかったので休みの日は1日中家でギターの練習をしていた。というよりギターを触れるのが楽しくて遊んでいたらすぐに1日が過ぎていった。

 

次のライブは夏合宿で、7月ライブが終わった部員はすぐに次のバンドを組む相手を探す。その頃になると僕も次第に部内でそれなりのコミュニティを確立し、仲の良い部員も増えていた。一回生のボーカルは2枠バンドを組むことができたので、次の夏合宿では何としても2バンド組みたかった。仲の良かった者に声をかけてなんとか同回生同士でKANA-BOONを組むことができた。もう1バンド組みたいなぁと思っていた矢先にガシに誘われたのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだった。

全く知らないバンドだったが、断る理由はなかった。KANA-BOONTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTもボーカルはギターを弾きながらの演奏だったので、ついに僕のレスポールの出番がきた。

 

KANA-BOONのメンバーはリードギターのゆうたは経験者だったが、ベースの慧周とドラムの山中(やまちゅう)は未経験者だった。ONE OK ROCKの時は僕以外のメンバーが上回生だったこともあり演奏は安定していた。それに慣れていた僕はKANA-BOONのスタジオ練習で初めて未経験者同士でバンド演奏することの難しさを知った。今回は特に僕もギターを弾いていたので難しさを実感したのだと思う。

 

THEE MICHELLE GUN ELEPHANTリードギターは匠(しょうと読む、同じ和歌山県出身で親の影響でTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが大好きで、リードギターアベフトシを崇拝していた、高校時代はひきこもってギターの練習しかしてなかったらしい)、ベースはがし(未経験者だったが同回生の中では比較的上手だった)、ドラムは若杉さん(2回生の先輩でONE OK ROCKのドラムを叩いてくれたのもこの人だった)で、初めてスタジオに入った時、今までと全く違う感覚だったのを覚えている。「え?これやばない?めっちゃ良くない?」とその完成度に自分達自身で感動していた。明らかに今まで組んだバンドとは違った。技量?グルーブ?バンドに対する想い?合宿で疲れて頭がバグってたから?なぜかわからないが、カチッとバンドが締まっている感じがした。そこから何度かスタジオに入り、さらに完成度が上がっていった。

「これ、、いけるぞ、、!」という気がした。

 

迎えたライブ当日

僕にとっては3回目のライブで少しずつ人前で歌うことに慣れてきていた。もちろん緊張はしたし必死だったが、自分達ができる1番良い演奏ができた気がした。

僕たちTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの演奏が終わり、ステージを降りて片付けをしてフロアに戻ると明らかに会場の雰囲気が変わっていた。上回生は僕たちの演奏を褒めてくれていた。同回生は驚いている者が多く、悔しがっている者もいた。ほとんどの部員は匠のギターに魅了されていたのだが、僕としては、このバンドが評価されたことが嬉しかったし、僕の歌を褒めてくれた人もいた。

初めての経験だった。

僕の中の自信がほんの少し生まれた瞬間だった。

 

 

それから月日は流れていき、僕たちはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのメンバーを固定して、何度もライブをした。数えたら引退までに6回(たぶん)ライブをしていて僕は4年間でで1番演奏したバンドがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTだった。

あの夏合宿のライブでたくさんの部員が僕のことを評価してくれて、軽音楽部にのめり込んでいく、続けていくきっかけになった。

 

今日まで僕はまだバンドを続けている。

僕がバンドをやる上での1番最初の小さな自信になったTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTにはとても感謝している。

バンドが人に与える影響は計り知れない。

 

チバユウスケさん、ありがとうございます。

大学受験の話 前編

 

高校3年生の夏、高校球児だった僕の最後の夏の大会は和歌山県ベスト16で幕を閉じた(良いように書いたが一回戦を突破しただけである)。引退が決まった時の正直な感想は「やっと終わったー!おっしゃー!」であった。小学4年生から8年間野球一筋だった。中学までは野球が楽しかったし「大学まで野球がしたい!」と親に話していた。しかし、高校野球は本当に地獄だった。

引退してから8年ほど経つが、いまだにあの日々より辛い日はない。本当に100万円を積まれてももうやりたくないと思っている。特に辛かったのが「食トレ」である。とんでもない練習量をこなしながら体重をキープ、もしくは増やすために僕の場合は毎日10合のお米を食べていた。誰に話しても驚かれるが、本当に食べていた。朝ごはんで2合食べて、自転車で学校まで行って、朝練後におにぎりを食べて、2限が終わればおにぎりを食べて、お昼はタッパー弁当で2合を食べて、練習前、後おにぎりを食べて、夕食で2合食べて、、という具合である。もともと少食だった僕にはこれが本当に辛かった。とはいえこれを実現するには親の協力が必要不可欠なので本当に感謝している。本当に感謝しているのだが、最後の試合に負けた時は「明日からもう10合食べなくていい!!!うおおおーー!!」となっていた。結果引退したのが8月で卒業までに15キロ痩せていた(最近は歳のせいかすぐ太るようになったので気をつけている)。

 

何はともあれ8年間の野球人生をやり切った僕は完全に燃え尽きていた。高校最後の夏休み、周りの友達は車の免許を取りに行ったり、バイトをしたり、海にいったり、各々の進路に向けての活動をしたりしていたのだが、僕は本当に何をしていたのかわからない。何の記憶もないのだ。車の免許も取っていない(これに関してはいまだに持っていないので、この時本当に取りに行けばよかったと後悔している)し、バイトもしていない。本当に何をしていたのだろうか。進路は何となく公務員になろうという甘い考えで、学校が開いている公務員講座というものを受けていた。高校卒業から公務員となると消防士か警察官、もしくは市役所から選ぶ形が一般的であった。高校野球を終えた僕は「もうこれ以上運動はしたくない」と思っていたので、訓練が必要不可欠な消防士と警察官は絶対に嫌だった。「ほな市役所かぁ、、ん??市役所??ほんまにええんか?」などとは思いながらも公務員講座を受けていた。

 

そんなある日、友達とROUND1に遊びにいく事になり、もう1人友達を呼ぼうということで満陽(みちはる)に電話した。すると満陽は「俺なぁ今日みつき(僕は服部と呼んでいる友達。満陽と服部はいまだに付き合いのある親友である。この3人のグループLINE「罪と罰」が存在する。)と龍谷大学オープンキャンパスに行ったねん。それで2人で龍谷いこうって約束したから明日から勉強するわ」と言った。僕は「はあ?じゃあ俺もいくから勉強するわ」と言って電話を終えた。ROUND1に行く約束をしていた友達に明日から勉強するから行けないと伝えて眠りについた。

次の日まず母に大学にいきたいと伝えた。詳しく知らないが大学は大変お金がかかるというイメージがあったから、僕の一存でいける場所ではないという気がした。理由は適当に「教師になりたい」と伝えた。母は「はあ?そんなお金ないで?」と言ったが「まぁ好きにしいや」と僕の決心が一時的なものとでも思ったのか、あまり相手にしなかった。

元々は大学に行くつもりで高校受験をしていた。僕の高校は偏差値はそんなに高くはないが指定校推薦の枠がたくさんある高校だった。昔から勉強はやればできる子だったので、中学3年生の間だけそれなりに勉強すれば成績はオール5だった。塾の先生から指定校推薦で大学に行くのが楽だと言われたので、この高校を選んでいたのだが、野球の練習で疲れ切っていた僕は授業中はずっと寝ているか漫画を読んでいた。おかげで指定校推薦など取れるはずもなかった。

母に話した次の日、担任の吉澤先生に龍谷大学にいきたいと伝えた。流石に話が急すぎたのか吉澤先生はポカンとしていた。「えっと、、まず龍谷大学ってどこにあるか知ってる?京都やで?」と言われ、目が点になった。しかし、冷静になって「満陽と服部と京都かぁ、、めっちゃおもろいやん!」となり、和歌山から京都は流石に通えないので、ちょうど早く親元を離れたいと思っていた僕には好都合だった。試しに龍谷大学の過去問を解いてみたのだが、高校の2年半全く勉強をしてこなかった僕には流石に厳しすぎた。そこで同じ京都で、少し問題の難易度が下がる大学を吉澤先生が紹介してくれた。それが佛教大学だった。「ん?佛教?お坊さんの大学?」と思ったがそれなりに教育に力を入れた普通の大学だということで、僕としては京都であれば何でも良かったので、ここにしようと決めた。

3人で「よし!やろう!」となり、僕と満陽と服部の受験勉強は始まった。

それはもう10月のことだった。