疑え!少年!

 

「どっちが売れてますか?」

と物販に立っている時に聞かれたことがある。

 

 

僕は高校生までの間、何に対しても疑いを持つことがなかった。

先生や母の言うことは全て正しいと思った。勉強も部活もそれなりにちゃんとした。それは大多数の人がそうしているから。時々喧嘩やサボりはしたけど、対して手のかからない、三者面談なら大体15分で終わる所謂優等生だった。かと言って飛び抜けてできることは一つもなかったのだが。

 

大学では日本文学科に入学し、文学と教職の勉強や研究をした。バイトは塾の講師をした。何となく教師にでもなろうかなと思っていた。というより他の職業を全然知らなかったので、いつも近くにいた教師という職業が1番リアルだった。

しかし、大学の教職の授業を受けている内に、教育というものに正解がないことがわかってきた。それは学校だけでなく子育てに於いても。先生や母が僕を叱りつけたり、導いたことは正解に基づいた事ではなく、あくまで個人の中での正解に基づいた事だったのだと知った。

自分にこんなことはできない、教えられることなんて何もないと思った。勉強なら教えられる。でも「人としてどう生きるべきなのか」僕から伝えられることはなかった。

 

部活動は軽音学部に所属し、大学時代はほとんどの時間をここで出会った人達と過ごした(メンバーともここで出会った)。ここにいた人達は本当に様々で変わっている人が多かった。でも僕はそんな人達が好きだったし、そんな人達に愛されていた。他人と違うことを受け入れ合えたし、そんな部分が面白くて好きだった。同時に様々な音楽にのめり込んで、そんな人達と演奏するバンドはとても楽しくて充実していた。

 

そんな大学生活の中で僕は少しずつ疑うことを覚えた。

今まで正しいと思っていたことや、教えられてきたことは本当に正しいのだろうか。

わからない。

わからないけど、今の自分で判断しよう、自分の中の正しさをちゃんと持っておこうと思うようになっていた。

 

久々に帰省して中学の頃の友達に再会した。みんな黒いスキニーを履いて、上は黒のダウンだった。僕は下はデニムを履いて、アウターは古着屋で買った物だったのだが、みんなは僕の服装を見て物珍しく笑った。僕はこの格好がイケてると思っていた。むしろ同じ格好をした友達(自分が着たい服を選ぶこともできない者)に侮蔑の眼差しを向けた。

同じ頃、帰省時に髪の色を緑色にしていたことがあった。母は僕の髪色を恥ずかしがって、GUでstar warsと書かれた帽子を買って僕に被せた。祖母は帰ってきた僕の服装を見て「今はそういうのが流行ってるん?」と聞いてきた。「いや、、流行ってるわけではないけど、、」と僕は返答に困った。「ただ好きな服を着てるだけなんやけどなぁ、、まあいうてもわからんか」という具合だ。

流行っているものを着るのがこの人たちの中では当たり前で、みんなと違う色の髪の毛は隠されるべき対象なのだ。

 

僕は本当に大学に来て良かったと思った。他人と違うことは全然恥ずかしい事ではないし、むしろそういう部分が自分を自分たらしめる。

僕は僕と違う君をちゃんと評価できる人間になれた。

好きな服を着て好きな音楽を聴けばいい。

「どっちが売れているか」ではなく「どっちが好きか」で選べばいい。

朝顔と母

 

小学一年生の頃

学習の一環で朝顔を育てる授業があった。

青い鉢植えがクラス全員に支給され、土を敷き詰め種を撒くまで先生が一緒にやってくれた。あとは生徒自身が毎日学校に来るたび教室に入る前に、中庭に並べられた自分の鉢植えに水を遣る。5日から10日ほどで、ふたば、本葉と生えてきて1ヶ月前後で花を咲かせるとの事で、1ヶ月後にある授業参観で親に朝顔の花を見てもらうというのがこの学習でのゴールだった。

 

この頃の僕は朝顔に無関心だったが、一緒に登校する友達が毎日水をあげていたので、自分もなんとなく水をあげていた(土が水浸しになるまであげていたような記憶があるが、多分あれは間違えていた)。速い鉢植えでは5日ほどでふたばが生えているものも見受けられた。友達も1週間ほどで緑を見つけていた。僕も初めは無関心だったが、みんなの鉢植えを見ていると自分の鉢植えの土から出てくるであろう緑を今か今かと待つようになった。ところが2週間ほど経っても緑が見つからない。周りの鉢植えは葉が増え、蔓が伸び、つぼみをつけているものもあったのに。あと1週間後に迫る授業参観までに朝顔の花を咲かせる事は到底不可能だった。

 

迎えた授業参観。

初めに算数の授業をして、生徒達は背後にいる親に良いところを見せるために先生の質問に対して手を挙げて、意気揚々と解答してみせる。自分もその中の1人で母の前で良いところを見せたかった。勉強はそれなりに出来たので、それなりに良いところを見せることができたと思う。

算数の授業が終わって休憩の時間、生徒達は各々親を連れて中庭へ向かう。中にはサプライズを隠すようにワクワクした足取りで向かう者もいた。

僕は憂鬱だった。

 

中庭には満開の朝顔達があった。本当にみんなの鉢植えが満開だった。

僕を除いては。

母は気まずそうにしている僕を笑いながら、ようやく発芽したばかりのふたばを人差し指でいじった。2、3回いじって「何よこれっ笑」と言ったのを今でも覚えている。今では笑い話だが、この頃の僕はそれがとても悲しかった。母に満開の朝顔を見せてやりたかった。

良い顔をしたかった。

 

授業参観も終え、満開の朝顔に水を遣る生徒はいなかった。次第に枯れ始める鉢植えもあった。僕は悔しくて、その後も鉢に水をあげ続けた。担任の林先生は僕を気遣って、一緒に水をあげてくれた。

2週間ほど経って、中庭は上級生がプチトマトを育てるために使うとのことで、一年生の鉢植えは回収することになった。鉢植えはそのまま自分達のものになり家に持って帰る。その頃になると朝顔達は皆枯れ果てて茶色く硬く、触ると割れてボロボロ土に落ちた。

でも僕の鉢植えには満開に赤、青、紫と色をつけた朝顔が咲き誇っていた。みんな僕の鉢植えに注目していて、気分は良かった。持って帰るのは大変だったが、家に帰って母に見せた。

母は笑った。僕は自慢した。

 

遅咲きも悪くないとその時思った。

ゆっくりでもいい、自分のペースで、確かな一歩を進めよう。

東京、名古屋へ

 

人に叱られるとすぐに泣いていた。

叱られるのが嫌だったというより、母や先生の怒鳴り声が恐ろしかった。周りの人達からは「泣き虫」のレッテルを貼られ、すぐに泣く癖がコンプレックスだった。

 

中学、高校と年を重ねるに従って自分の感情、、というより自分の行動をコントロール出来るようになってきた。部活動(野球部)で怒鳴られる事はほぼ毎日だったが、何も感じなかったし、泣く事はなかった。むしろ怒りを覚えていた。コンプレックスの反動だったかもしれないと今では思う。大学時代は感動の涙を流す事が多かった。

 

 

ただ最近は怒鳴り声にめっぽう弱い。

アルバイト柄人に怒鳴られたり、嫌なことを言われることが多々ある。その度に傷心する。ググッとグレープフルーツをミキサーにかける瞬間の様なエグ味が胸中に起こって、両の目の後ろの線がプツンと切れそうになる。あの頃の様に必死に耐えるが目から水が溢れる

花にも遣れない水が。

 

周りに気づかれない様に顔を隠して業務をこなし、終業後帰り道ハヌマーンを聴く。「幸福のしっぽ」を聴く。落ちている時に聴く音楽に救いは求めていない、むしろもっと落ちていける方がいい。落ちた先で、結局逃げ道はあっても逃げ場はないことに気づく。この不安から逃げ切る事はできない。

 

 

 

そんなことを考えながら、今年最後の東京、名古屋へと向かう。今年は関西以外のライブを沢山した。もちろん金銭、体力的な限界はあるが意識的に増やした。この活動が何に繋がったか今の所よくわからないが、東京や名古屋に僕等を待ってくれている人達がいる事は確かだった。来年は各所で自分達の企画等打つ事ができればと思う。待っていてほしい。

 

 

気付けば今では自分がステージ上から何かを怒鳴りつけている。睨みつけている。するとその先ではあの頃の僕の様に泣いている人がいる。でもそこに流れるものは僕が流していたものとは違う。もっと美しい様な気がする。

だから今日ももっと怒鳴りつける。

母や先生よりも大きな声で。